naver007

カテゴリ:■韓国文化財( 11 )

韓国人が城壁を破壊した♪ソウル600年史

こんにちは。( ^-^)/
2006年11月2日 韓国マスコミ各社が下記の記事を掲載しました。

崇礼門城壁 100年ぶりに復元 ・・・左右 10mずつ四角形態で

国宝1号崇礼門(崇礼門·南大門)の城壁が 100年余りぶりに元々姿を取り戻す.
ソウル中区は崇礼門に繋がれていた朝鮮時代城郭を 2008年まで左右 10mずつ修復する事にした.1907年日製が崩してから 100年ぶりだ.当時日製はもとの通りに開設を名分で崇礼門左右の城郭を撤去して成文(城門)だけ残して置いた. 

城壁撤去に関して、韓国サイドの説明はおおむね下記の通り
日本は1907年、日本の皇太子が来韓の際に城壁処理委員会をつくって、民族的象徴であるソウルの宮廷と正門、城壁などを露骨的に破壊する作業に出た。日本は住民感情を無視して、撤去を強圧的に断行した。この卑劣な行動は非難されて当然である!

皇太子来韓を契機に、都市計画が推進されたことは事実です。しかし、1907年以前に韓国みずから一部城壁を撤去していたという説明を発見しました。それがこちら↓^^v
b0079910_8321723.jpg
b0079910_832501.jpg

【機械翻訳】
朝鮮 5百年間惜しんで整えられて来たソウルの都城は新しい文物の登場でその光を失うようになって毀損,撤去など惨めな運命を当たるようになった.

漢城電気会社は光武 2年(1898年) 1月に政府から電車軌道の敷設権を得てその年 10月工事に着手,その翌年 5月西大門と清凉里の間に電車が開通したがこの電車軌道の敷設で東大門と西大門近所の城郭一部が撤去にあってしまった.

また光武 4年(1900年)には鐘路と竜山の間に電車軌道が敷設されることで南大門近所の城郭一部が撤去されてしまった.このようにして都城の従来の機能はその光を失ってしまったのだ. 

b0079910_8512547.jpg


どの部分をどのくらい撤去したのか。それは不明ですが、「ソウル六百年史」によれば、最初に城壁を撤去したのは、日本ではなく韓国ということになります。

また城壁撤去を計画したのも韓国です。経緯が「ソウル600年史」別ページにありますので、ご紹介しましょう。(以下、機械翻訳文を現代風に)


光武 11年(1907) 3月30日議政府参政大臣・朴斉純、内部大臣・李址鎔、軍部大臣・権重拐が 「東大門南大門左右城壁を毀撤する件」を奏議 3月 31日付けで裁可を受けた。

【高宗皇帝にあげた奏議の内容】
「東南の大門は、皇城で通じる要衝だから人も馬も車も爆走する所なのに、また電車もその中を貫くのでは、お互いに抵触になることが多いので、交通運輸の都合上便宜した方途を取らなければならなくなりました。門樓 左右をそれぞれ 8カンシックだけ崩して電車出入り線路にするようにして、元々の門路は人民だけ行き来するようにすれば、お互いに絡み合って窮屈な弊端は消えるようにするから、ご遠慮図面を取り揃えて、乙覧に供したら聖裁を望みます」


その後、政府は城壁撤去といっしょに南大門役に至る道路の新設拡張も計画して、まず南大門道路改着費で工事費 135,595ウォン(円) 93戦(銭)を計上して、土地及び家屋の買受と家屋以前などの作業を取り掛かります。

しかし5月 22日に変わった新しい内閣が 「東南門樓の左右を工事する件は、もう裁可が下った事だが 「小部分だけ撤去しても、南は部分は交通が爆走する路上のままで醜いだけなく、都城中の防備のためにも利益にならないから、「残った部分も撤去」する方が王様の大義を見せることになって良いだろう 」と奏上して、二回目の裁可を受けました。

二回も皇帝の裁可を受けましたが、政府は人足(人夫)を任用してでたらめにただれてしまう工事をするのに先立って、同じな日 7月 30日付け内閣令で城壁処理委員会というのを構成して城壁処理に関する業務一体を専管するようにしました。href="http://seoul600.visitseoul.net/seoul-history/sidaesa/txt/5-8-1-3.html" target="_blank">★



この城壁修理委員会(1907年7月30日~1908年9月5日廃止)は内部、度支部、軍部、3個部で各 2人ずつの委員を出す方式で、内務次官木内重四郎の主導で運営された合議制執行機関だったそうです。

要するに「韓国政府は城壁撤去の必要性を理解していたので計画し、実行してみたが、結局うまくいかないので日本の助けを借り、城壁処理委員会を設立して業務をまかせた」わけです。城壁処理委員会は1年2ヶ月ほどで廃止になりますが、事業は内部の地方局と土木局に移管されます。その後に、西小門近所の城壁 77間と南大門近所の城壁 77間がそれぞれ撤去になったそうです。

韓国の人は「1907年、日帝が城壁を破壊した!」と日本を非難する前に、まともに都市計画を実施できなかったご先祖を嘆くべきです。先祖の無能をすべて日本のせいにする驚くべきな韓国。ちょっとかんしゃくおこりますね。こんな狭い土地を城壁で囲って、何が近代化なのか。韓国の人は、ちょっとわかって言ってください。
b0079910_16554742.jpg


■おまけ
【城壁処理委員会規定】
光武 11年(隆煕元年・1907年) 7月閣令 第1号公布

第1条:城壁処理委員会は内部,度支部,軍部三大臣の指揮監督を受して城壁の毀撤、その他に関した一体事業を処理する。
第2条:会長は内部、度支部、軍部、借款の中で三府大臣が協議した後、此を先任する。
委員は 6人で決めて内部,度支部,軍部で各 2人をして三府大臣代わりが先任する。
特別な必要が有する場合には、前項定員外臨時委員を先任することを得ハム。
第3条:会長は委員会の決意事項を執行する。尚且委員会の例(予)ヒ委任した事項を此を専行ハム。
第4条:委員会に関する庶務に携わるようにすることをために吏員 2人を置ハム。
付則
第5条:本令は公布日から施行する
光武 11年 7月 30日」
[PR]
by naver007 | 2006-11-08 08:33 | ■韓国文化財

試み記念物 第218号(長興郡)

天道教長興教堂

長興遷都校堂は元々 1906年 4月に東学の後裔である校具場姜ボンス(姜〓秀) などが中心になって遷都教人に募金運動を展開して建てられた.天道教長興郡校具歴史〉と校堂内部にかかった〈校具実技(教区室記〉(1920年)を通じて当時改築には全南意思院(全南議事員) シンミョングフィ(申明煕),長興校具場金財界,受領姜ボンス,ユンセヒョンなどが主導したということと 1917年(布徳五十六年情事(布徳五十六年丁巳) 11月から一ヶ月余りにかけて 2,300ウォン(円)を募金して 1918年 2月 15日に建築を始めて 6ヶ月ぶりである 8月 26日竣工したことそして建築実費が 1,600ウォンが入ったということが分かる

.募金に参加した軟調である(捐助人) 169人,モックヨックである(木役人) 104人,土役である(土役人) 34人で名簿が確認された.土役人は寄宿所(寄宿所) 建立を主にした.このように 1906年と 1918年の建立に発起人と軟調である,モックヨックである,土役人まで記録されて建築金額や建立期間まで分かって重要だ.

長興地方に東学(1905年天道教で改称)が布教された連帯はおおよそ 1891年頃だったが李引換,李方言,ムンナムテックなどが東学に入門するようになった.

天道教だ建物として残っている有り勝ちではない建築物という点,三一運動など項である独立運動をした人物たちと連携される空間構造として重要な席を占める.そして構造様式において伝統韓屋が開花期の多くの文化が変容されながら功績近代化過程を表象するなど近代移行期の公共機関の建物の変貌過程が分かるという点等で歴史的,学術的,郷土文化史蹟価値がある.

日帝強制占領期間
財団法人天道教維持財団

[PR]
by naver007 | 2006-10-25 22:57 | ■韓国文化財

重要民俗資料 第113-9号


時代未詳
高麗大学校

朝鮮時代入れ墨である紅塵種(1649〜1702)の衣服で 1968年京畿道計算違い邑で出土された.紅塵種は肅宗 3年(1677) 過去に合格してピョンガン県監を執り行なった事がある.

2点の中で一つは表と載せないa明紬で薄く綿を置いて 1.5㎝で歩き回って作った男ズボンだ.ズボン長さ 110㎝,ズボン腰長さ 61㎝,腰広さ 17.8㎝,ミッギルが 42.6㎝,くちばし広さ 30㎝でくちばし下には他の布を 2.2㎝ 大魚中でゴンググリョッダ.

もう一つは明紬に綿を厚く置いて 6㎝ 厚さで歩き回ったことで,寒い時はくズボンだ.ズボン長さ 96.5㎝,ホ里道が 67㎝,腰広さ 18㎝,くちばし広さ 30㎝,ミッウィギルが 39㎝,クンサポックノブが 25㎝だ.

[PR]
by naver007 | 2006-10-25 21:16 | ■韓国文化財

重要民俗資料 第113-8号

モックミョンナブウィで(木綿納衣袴)

時代未詳
高麗大学校

朝鮮時代入れ墨である紅塵種(1649〜1702)の衣服で 1968年京畿道計算違い邑で出土された.紅塵種は肅宗 3年(1677) 過去に合格してピョンガン県監を執り行なった事がある.

この服は無名を縫って作った男ズボンだ.寸法はズボン長さ 97㎝,バジトング 29㎝,ズボン腰長さ 68㎝,ズボン腰広さ 18㎝,ザックウンサポックギルが 63.1㎝,クンサポックギルが 94.6㎝だ.

[PR]
by naver007 | 2006-10-25 21:14 | ■韓国文化財

重要民俗資料 第113-2号

ミョングズヌビチァングの(明紬ヌビ 衣)

時代未詳
高麗大学校

朝鮮時代入れ墨である紅塵種(1649〜1702)の衣服で 1968年京畿道計算違い邑で出土された.紅塵種は肅宗 3年(1677) 過去に合格してピョンガン県監を執り行なった事がある.

創意はたいてい常衣の上衣で着たし官服には下敷き服で着た.この服は明紬を材料にして縫って作った服だ.寸法は着丈 124.8㎝,化粧113㎝,後品 27㎝,古代 24㎝,震動 31.4㎝,袖末広さ 25㎝,ソメトング 50㎝,ギッギルが 44.5㎝だ.

[PR]
by naver007 | 2006-10-25 21:09 | ■韓国文化財

重要民俗資料 第113-7号

ダブホ

時代未詳
高麗大学校

この服は朝鮮時代ピョンガン県監を執り行なった事がある入れ墨紅塵種(1649〜1702)が常衣で着したダブホだ.

ダブホと言う(のは)小売値ない今のツルマキに似ている姿である胞衣一種で長さが長くてのそばと前に重ねて当てる布地である大根とソブがないし後縫目が腰下に開けている服だ.

後が前より 30㎝位短い縫った服として以前のダブホとは違う姿をしていて複式研究に貴重な資料になっている.

[PR]
by naver007 | 2006-10-25 21:07 | ■韓国文化財

重要民俗資料 第113-6号

深衣

時代未詳
高麗大学校

この服は朝鮮時代ピョンガン県監を執り行なった事がある入れ墨紅塵種(1649〜1702)が常衣で着た審議だ.

審議と言う(のは)高麗時代中国の宋の国から入って来たし朝鮮時代儒者たちが着た服で頭に道服にそろえる頭巾の一つとともに着した.襟,袖末,すそなどには黒色線をドルリョッウであり腰には台をかけて五色の帯を垂らした.

この審議は現存すること中一番古いことで台(帯)まで保存していて複式社研究に貴重な資料になっている.

[PR]
by naver007 | 2006-10-25 21:04 | ■韓国文化財

試み類型文化財 第144-19号

仁王像1

朝鮮時代
津寛寺

[PR]
by naver007 | 2006-10-25 20:51 | ■韓国文化財

試み類型文化財 第144-20号

仁王像2

朝鮮時代
津寛寺

[PR]
by naver007 | 2006-10-25 20:45 | ■韓国文化財

文化財資料 第11号

文化財資料 第11号(恩平区)

津寛寺独聖閣塑造独聖(那畔尊者)
朝鮮時代


この仏像は現在津寛寺毒性閣に法案された毒性上に塑造ドルだ.毒性はナバンゾンザとも言うのにナムイン島のチォンテサンに居住して仏様の手記を受けて熱心に精進する私一人中の一人として我が国では朝鮮後期に山神及び七成とともに三星閣に奉安するとか別に毒性閣に奉安して信仰こんにちはだった.

毒性上は現在塑造の仏像に彩色をして奉安しているのに身体に比べて顔が大きくて両手を膝の上につけた姿など七星閣の石仏座像と似ている.顔はほとんど四角形に近い位に角が負けたが目と眉間が遠くて,鼻がにょっきと湧いているし,口を必ずつぐんでいるなど意志が強い羅漢の姿をよく表現している.身にかけた家事は左(左である)で,左側肩には家事を固定した金具飾りが表現された.ちょっと長い上体に比べて膝が低くて身体が長く見えて低く表現された膝の上に両手を端整につけている.

大部分毒性は仏画では私でも羅漢の姿に表現されることが原則だがここでは若い羅漢の姿で表現したのが特異だ.この仏像は塑造で作った毒性上としてソウル, 京幾一円にはほとんど残っていない毒性切れという点で重要な意義がある.また当時毒性上の特徴と彫刻様式が分かる資料に評価される.

[PR]
by naver007 | 2006-10-25 20:43 | ■韓国文化財


画像置き場
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31